ボクシングを知らなくても大丈夫

ボクサーを取材した記録がまとめられている本ですが、ボクシングに詳しくなくても楽しめます。自分もまったくボクシングは詳しくないどころか、まともに見たこともないので。なんなら物騒な競技だなとまで思っていたくらいで、中立ですらない可能性もある。
その認識が少し変わるくらい、ものの見方を変えてくれる良い本。ボクシングの試合を、ちゃんと通しで見てみたいと思った。
ボクシングじゃなくてもスポーツが好きな人ならまず楽しめるだろうし、そうでない人でも何かに熱中した・打ち込んだ経験が少しでもあれば、興味深く読めるはず。将棋とかゲームとか、そういう対戦モノが好きな人にとってもおもしろいだろうね。
アスリートが試合中の一瞬一瞬に何を考えているのか、仕事(=競技)に対してどんな思いで向き合っているのか、日々の暮らしぶりはどうなのか。どんな人が読んでも、何らか心に触れる部分があると思う。
表には出ない敗者の姿
この本は「井上尚弥」という時代を背負うスター選手を中心に話が進んでいくけれど、その当人はほとんど登場しない。負けた相手への取材記録が中心。
作中ではたくさんのボクサーの人生が紹介される。ボクシングに出会った日の記憶。プロになるまでの道のり。チャンピオンを目指す理由。
語られるエピソードのひとつひとつが生々しくて、人間くさくて、愛おしさがあって。その生き様に感動したり惹かれたりしていくうちに、つい登場人物のことを応援しながら読み進めてしまう。それでも決戦の日は訪れ、読む前からわかっている通り、試合に負ける。
そして井上尚弥に負けたあとのことも語られる。そこで表れる心の動きがまた良い。同じ競技をして、試合に負けたという結果が同じでも、みんな抱えるものは違う。
考えてみればそれはあたりまえなんだけど、こうして人となりを知ってから文章として読むと、ずっしりと重みごと体験させてもらえる感じがした。
これは映像みたいな受け身でも得られるコンテンツでは達成しえない体験だと思う。読書特有のなにかだ。能動的に時間をかけないと読めない本だからこそ、得られる体験がある。
スポーツが仕事になる残酷さと美しさ
どの選手のことも印象に残ったけど、「アドリアン・エルナンデス」選手の章が特に印象的だった。敗戦によって自暴自棄になり、普通の生活すらままならない様子が語られている。
ボクシングに人生をかけて打ち込み、夢がかなってプロになれたと思ったら、今度はボクシングによって人生を狂わされる。
スポーツを仕事にする残酷さがごまかすことなく描かれていると同時に、これだけ人生の密度を濃く詰めこんでいるからこそ、プロのスポーツは興行として強く、美しく見えるのだと思った。
日本でも引退したアスリートが犯罪に手を染めてしまうことがあるし、麻薬など薬物事件も起こっている。プロになれなかった有名高校・大学の元選手なんかもやってしまうよね。自分はそれをこれまで強めに嫌悪していたけど、少し考えが変わった。
人間が極限まで能力を特化させて競い合う「プロスポーツ」を楽しませてもらうなら、どうしても出てくる負の側面を社会でカバーしていくのも、必要経費なのかもしれない。そこまで悪いほうにいかなくとも、アスリートのセカンドキャリアって話題になりがちだしね。
人生の密度や生き方を感じられて、すばらしい読書体験だった。

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